大田区田園調布の小児歯科ならabc dental

田園調布の歴史

はじめに

大田区田園調布の大部分の地域は、東京でも有数の高級住宅街だ。 現在、大田区田園調布以外に、田園調布本町、田園調布南の住所表記があり、旧「大森区田園調布」に相当する地域で、大田区田園調布の南側に位置します。 また隣接する世田谷区側に玉川田園調布の表記があるが、田園都市株式会社が田園調布と一体の住宅地として造成・分譲を行った地域である。

現在の大田区田園調布は一丁目〜五丁目からなり、高級住宅街のイメージで語られる際の「田園調布」とは、田園調布駅西側に広がる扇状の街路付近の大田区田園調布三丁目と四丁目の一部を中心とした一帯を指すが、かつては田園調布一丁目から二丁目にかけての国分寺崖線に面した部分、及び田園調布四丁目から五丁目にかけての多摩川に面した国分寺崖線の辺りに大邸宅が集中していた。

現在、多摩川駅周辺の斜面に点在するマンション群はその名残である。 田園調布と表記のつく地域は、田園調布駅周辺の田園都市株式会社が分譲を行った地域と、この分譲に合わせて周辺の地主が土地区画整理組合を結成して宅地造成した地域の二つからなる。

前者は現在の二丁目の一部(田園調布駅の東側)、三丁目、四丁目の一部と玉川田園調布であり、一丁目、二丁目の一部、四丁目の一部、五丁目、南、本町が土地区画整理組合によって宅地開発が行われた部分である。前者の大田区の部分の町内会が社団法人田園調布会となっている。

大田区田園調布は昭和30年代初頭に住居表示変更が行われ、一丁目から五丁目だったのが一丁目から七丁目に変更された。さらに1970年(昭和45年)に地番改正が行われ、中原街道から北側の田園調布三丁目から七丁目を一丁目から五丁目に、中原街道と東海道新幹線と品鶴線(現・横須賀線)に挟まれる田園調布二丁目を田園調布本町、線路の南側の田園調布一丁目を田園調布南と表記変更した。

大田区田園調布には、北から、東急東横線と目黒線が乗り入れる田園調布駅と、この2線に加え東急多摩川線の始発駅でもある多摩川駅があり、田園調布本町には東急多摩川線の沼部駅がある。 名前と由来歴史 そもそもどうして「田園調布」と名づけられたのか。 調布という地名は、昔の税制度の「租庸調」に由来するといわれている。

もう少し遡ってみよう。4世紀始めに宝莱山古墳が築造され、6世紀までに亀甲山古墳など10数基の田園調布古墳群が造られる。多摩川沿いでは奈良時代頃に布を調(税としての特産物)として納めており、それが調布となったそうだ。そのため都内には調布市以外にも調布という地名が残っている。

田園調布がある土地も、かつては荏原郡調布村と言った。

では田園はどこからきたのか。
その理由がイギリス人の都市計画家、エベネザー・ハワードにある。ハワードが「田園都市」という思想を本にしたことが関係している。 美しく閑静な住宅街である田園調布は、日本の実業界における明治~大正期最大の指導者であり「日本資本主義の父」と言われる偉大な実業家・渋沢栄一氏の理想を実現した街なのである。

明治時代、その頃の財界人であった渋沢栄一は欧米を視察して「田園都市」という構想を知り影響を受けた。「田園都市」という言葉は、19世紀後期のイギリスで提唱された「住宅と庭園の共生する新しい形態の都市」構想で、その思想に共感し、渡欧を重ねながら東京での田園都市づくりを渋沢栄一は計画したのである。

氏が立ち上げた「田園都市株式会社」は宅地開発と鉄道事業をともに行ない、1918(大正7)年から当時の多摩川台地区を開発、現在の田園調布のはじまりといえる。 引退後、田園都市会社の支配人となったのは父の思想を引き継いだ息子、渋沢秀雄である。

彼は、アメリカのSt.フランシスウッドやイギリスのレッチウォースに視察に行き、その開発理念やアーバンデザインを学んだ。それを田園調布の街づくりのエッセンスとして取り入れ、現在の田園調布の地域を開発していった。

1922(大正11)年より分譲が始まり、当初から名士や著名人が邸宅を構えることになった。

1923年(大正12年)には調布駅が開業した。

1926年(大正15年)1月に上記駅名に「田園」が冠され、「田園調布駅」となった。これは東急電鉄によれば「田園都市づくりから」となっている。この時点での分譲地の一般呼称は「調布田園都市」であり、その年の5月に創立した町内会組織「田園調布会」でも規約第1条に「本会は田園調布会と称し、調布田園都市地域内の居住者をもって組織す。」とあった。しかし、駅名「田園調布」が次第に地域名としても用いられるようになり、それも当初は田園都市会社が分譲した地域(現在の大田区田園調布二丁目の一部・三丁目、四丁目の一部、世田谷区玉川田園調布一丁目・二丁目にあ たる地域)を指したが、次第に隣接する下沼部一帯を合わせて「田園調布」と呼ぶようになった。

その後、1928年(昭和3年) 調布村に町制が敷かれ、「東調布町」となった。

1932年(昭和7年)には 東京市へ編入、田園調布の東調布町町内域は上沼部を合わせて大森区田園調布一丁目 – 四丁目となった。また玉川村村内域は、住民は田園都市の一体性を理由に大森区への編入を望んだが叶わず、世田谷区玉川田園調布となった。
ここに初めて行政区画としての地名「田園調布」が誕生した。

開発当初は日本の都市に新たに出現した中堅層向けの住宅地であったが、良好な住宅環境であったことから次第に評価が高まり、また国分寺崖線の良好な地盤の上にある事から、関東大震災後に都心から多くの人が移住した。開発当初からの駅西側に広がる扇状に整備された区画一体は、パリの凱旋門周辺を参考にしたと言われており、イチョウの並木と相まって「高級住宅街」としての趣を備えている。

地元自治会としては1926年(大正15年)に設立された「社団法人田園調布会」があり、住宅の新改築に際しては厳しい制限を求め、環境保全に努めている。同法人によると、田園調布が「日本で初めて計画的に開発され、分譲された庭園都市」とされている。

東急東横線・目黒線が通る多摩川駅の東側、田園調布一丁目に約3万平米の広さの田園調布せせらぎ公園(旧多摩川園遊園地の一部)があり、多摩川駅の西側から多摩川の河川敷との間、一丁目と四丁目に約6万6千平米の広さの多摩川台公園が、そして三丁目には大正時代末期からある宝来公園があり、第2種風致地区による建築制限と相まって、良好な住環境が整っている。

田園調布一丁目、二丁目の主要区画道路には桜並木が植えられ、ちょうど学校の始業式の季節には満開の桜が花のトンネルのようであった。現在ではその多くが老木となり、最盛期の一割程度しか残っていないが、開花期には美しい花を咲かせている。

戦後には、長嶋茂雄など著名人が多く住み、1980年代には星セント・ルイスのギャグのネタ「田園調布に家が建つ」にもなった。 以上より当時から理想的な田園都市が展開されていたということだ。

田園調布には、新中間層の上層部の人や軍人、大学教授や医師といった人々や理念を抱いた開発者自らが住み着き、志の高いコミュニティーが形成された。街の運営は自治会である「田園調布会」によって自らが運営し、開発当初の理念を受け継いだ紳士協定である『田園調布憲章』のもとに街が守られ続けてきた。

開発当初の「土地譲渡契約書」には建築に対する条件が付されていた。それには、建蔽率やセットバックの概念などが記されており、その紳士協定によって街の環境が守られてきたとも言える。 見た目だけではなく思想から作られた街並みの美しさは、今でも輝きを失っていない。 文化人・政治家・スポーツ選手などの邸宅も多く、ステイタスを保ち続けている。