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歯の歴史

歯科医師(しかいし)は、歯学に基づいて傷病の予防、診断および治療、そして公衆衛生の普及を責務とする医師である。日本において、その職務等に関しては、歯科医師法により規定されている。業務独占資格および名称独占資格の医療資格である。歯医者(はいしゃ)ともいう。

【歴史】

旧石器時代(紀元前7000年)
紀元前7000年、はじめて歯の治療という概念が生まれたのはガンジス川付近と言われています。
木製の弓ドリルを歯を治療するために使用した様ですが、どのように使ったのかはわかりません。また、この木製の弓ドリルは、火起こしの道具としても使われたそうです。
縄文時代(12000年前~3000年前(紀元前1000年))
縄文時代には、歯を抜く習慣があったようですが、これは治療のためではなかったようです。
飛鳥時代(6~8世紀)
耳、目、口、歯は医師が治療を行うことになっていた。さらに時代をさかのぼって、古墳時代(3世紀中~6世紀頃)の埴輪にお歯黒をしたものが見つかっています。そして、邪馬台国の卑弥呼が出てくる「魏志倭人伝」には、「東方に歯黒国あり」と書かれているそうです。お歯黒には、歯質を強化する作用があると日本歯科医師会でサイトで説明されていました。
平安時代(794年~1185年)
平安時代には、朝廷においてのみ、歯科治療が行われていたようです。お灸をすえたり、加持祈祷していたようです。抜歯もしていたようです。うがいも口の中の掃除のために行われていたようです。もっとも民衆も巫女が抜歯を行ったという記録もあるようです。
鎌倉時代
世界、日本ともに抜歯が盛んに行われていたようです。日本で、歯の掃除道具として、楊枝が登場したのは鎌倉時代のようです。
室町時代
室町時代になるとお歯黒の習慣が男女ともに盛んになったようです。咽喉科というのができたのはこの頃のようです。世界では、歯科施術者=床屋、歯大工、歯技師という人たちがいたようです。
戦国時代
戦国時代には、口科専門医の祖といわれる「丹波康頼(たんばの やすより)」(平安時代の人)、日本最古の医学書「医心方」を記した、の一族、丹波一族は、その子孫、兼康家、金保家として江戸時代まで口中科として受け継がれたそうです。治療法は、秘伝で庶民に広まらなかったようです。
江戸時代(1603年~1867年)
麻酔がない時代の抜歯の痛みは想像を絶するものがあり、患者が抜歯の痛みに堪えかねて出す大きな叫び声をかき消すために、ヨーロッパでは、助手にドラムを叩かせたりトランペットを吹かせたりすることもあったようです。
抜歯器具として古くから西洋で使われてきた代表的なものに、”ペリカン”と言う物があります。ペリカンの名称は、先端の掛け金の部分がペリカンの嘴(くちばし)に似ているため、そのように呼ばれていました。麻酔がない時代に短時間で抜歯を終わらせることは、重要な要素の一つであったので、このペリカンは長期間にわたり使用されてました。
理髪師が簡単な外科手術や抜歯を行っていたため、理髪外科医と呼ばれるようになり、歯科治療では、抜歯や歯石除去、歯の清掃などを行っていました。その理由は、理髪師は指先が器用であることや、外科治療には欠かせない鋭利な刃物、器具などの取り扱いに馴れていたためと考えられています。
理髪師が、外科処置や歯科医療を副業としていたことは、現在の理髪店の看板の「三色ねじり棒」に名残があります。白がほう帯・シーツ、赤が動脈血、青が静脈血を表しています。房楊枝と呼ばれる歯ブラシが使用されるようになったのはこの頃です。直接虫歯に対して積極的に治療をするということはなかったようです。また、木製の入れ歯があったようです。入れ歯に関しては、西洋よりも優れていたと言われています。
世界もこの頃になると、1840年にアメリカで世界初の歯科医学校ができたり、だいぶ歯科技術が進んできたようです。そして、世界も日本も麻酔を用いた口や歯の治療が行われるようになっていっていきました。これは、画期的だったことでしょう。
明治時代(1868年~1912年)
海外から外国人歯科医師が来たり、日本から海外に留学する者がいました。明治後半になってようやく歯科医師という身分が日本で確立されました。東京歯科大学などができたのはこの頃です。長く続いた「おはぐろ」の習慣は、明治時代になって野蛮なものとして禁止されました。
世界では、この頃、特にアメリカで、むし歯菌が歯についた食べかすに作用して酸が作られる結果、歯の表面を溶かすという説や歯垢がむし歯の原因であるなど、様々なことが明らかになりだしました。19世紀になると、日本で、多くの歯磨き粉が売られるようになっていきました。商品として売られている歯磨剤の材料については、房州砂、滑石が使われてたとのことです。それ以前は、歯大工とかそういう人達が活躍していたことを考えると、今の歯医者らしきものができてきたのはこの頃のようだ。
1875年2月に医業開業試験法が発令され、エリオットにアメリカ歯科医学を学んだ小幡英之助は歯科の専門試験の創設を願い、東京医学校の長与専斎はこれを認めて、同年10月に附免状を出した。よってわが国最初の歯科専門医 小幡英之助(歯科医籍第1号)。1879年には新たに「歯科」の試験科目が加えられ、1883年までに30名の「歯科」の医師が登録されたが、1885年に「歯科医籍」が創設され、歯科の医師はそれまでの「医籍」から除かれることとなった。
1906年医師法、歯科医師法の制定によって、医科と歯科とは完全に分離された。
大正時代(1912年~1926年)
大正時代になると国も歯科の重要性を認識しだし、歯科医の独占業務として歯科治療が確立されました。しかし、まだまだこの時代は医者でない者による歯科治療が行われていました。しかし、急速歯科の重要性を認識されたのは、確かで、東京帝国大学に歯科講座が開かれたり、陸軍・海軍の病院で歯科医師が採用されるようになりました。
世界では、すでに、歯科が医療から独立し、口腔外科医なども誕生し、歯科分野の広がりを見せていました。
昭和時代(1926年~1989年1月7日)
昭和になると歯科治療も現代と比較してかなり類似していました。各種法令が整備され、健康保険法も施行されました。歯科治療の値段(歯科診療標準報酬)は、日本歯科医師会は、内務省と打ち合わせてを決めるなど、医療は国家主義的な面が強くなりました。

1942年(昭和17年)「国民医療法」が制定され、医師会・歯科医師会は国策協力機関に改変されました。医療法の基本概念は「健民・健兵」でした。
戦前は専門学校(4ないし5年の修業)で行われていた歯学教育は、第二次世界大戦敗戦後の学制改革により、新制の歯科大学として、医科大学と同じように6年制となった。
なお、戦前の国立大学医学部には、歯学部新設まで歯科口腔外科学講座があり、歯学部を創設しなかった医学部では、顎口腔科学分野、口腔病態学分野などとして歯学・口腔医学の教育が行われている。東京大学医学部には口腔外科学があり、病院の顎口腔外科・歯科矯正歯科を担当している。
平成時代(1989年~)
こうした立場に基づいた今日までの教育体制、学術体制、医療体制は、歯科医学、歯科医療に独自の発展をもたらし、歯科としての「業」を強固なものにしたが、これら従来の歯科医学・歯科医療は、歯牙およびその周囲組織を主な対象とし、全身と切り離された形で実践されてきたきらいがあります。“器材による疾病の治療”という側面が強調されて、“患者を対象とした疾病の治療”である一般医療とはやや異質なものとみられてきました。
しかし近年、社会の高齢化と医療に関する研究の躍進により口腔と全身の関係性が見直され、現在の歯科医療は単に歯牙とその周辺組織の病変にとどまらず、幅広い口腔領域の疾患を対象とする本来の歯科医療へと変化しつつあります。
また、ホワイトニング、矯正に代表されるように美容のための歯科というものが確立され、これまでは治療の為に歯をいじる人ばかりだったので、長い歯医者の歴史の中で異例の事となってきています。
そして、まだ主流ではないが、歯の治療を体の一部分ととらえず、歯は臓器、歯は体の全体を支えていると主張する人たちも出始めました。長い歴史の中でずっと軽んじられて来た歴史の方が長い歯にとって、現在は特殊な時代になってきたということになります。
また、日本の歯科医学の渡来経路は

⑴中国の漢学からによるもの
⑵ポルトガル人、オランダ人により、南蛮医学あるいは蘭医学の一科として渡来したもの
⑶渡来した外国人歯科医師により直接わが国に紹介されたもの
⑷外国に渡った日本人が歯科医術を修得し、帰国後紹介したもの

この4つであるといわれています。
1870年(明治3年)、新政府がドイツ医学の導入を決定し、相手政府に指導者の派遣を要請した。これに応えて翌年、早速ドイツより2人の指導者が来日し指導にあたった。こうしてオランダ医学からドイツ医学へとの移行が始まっていきました。

一方、幕末から明治維新にかけての日本の歯科医療は

⑴口中医 ( こうちゅうい )
⑵開業歯科医
⑶主に義歯を製作していた入れ歯師
⑷主に抜歯をしていた歯抜き師

⑸街頭で歯薬売りおよび抜歯などをしていた香具師(やし)に分類できる。

現在の歯科医師の分業化ともいえます。

歯科という名称は、大化の改新末期大宝律令の医疾令で、耳目口歯科と称されて以来、平安末期に口歯科となり、平安桃山時代に口中科に変わってから明治まで使用されていました。